韓国の科挙文化
古代韓国に導入された科挙制度!時代劇ドラマでは教えてくれない、過酷な道のりとは…?
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皆さんは韓国の時代劇をよく見ますか?
韓国の時代劇ドラマは、韓国社会の上流階級に属する身なりのいい人物に焦点を当てたものが多いです。
ですが、彼ら貴族の実際の生活はどうだったのでしょうか?
当時は何を勉強しなければならなかったのか?そして韓国ではどのように地位を得ていたのか?
今回は、古代韓国の教育制度「과거(科挙)」について見ていこうと思います
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韓国科挙の起源
韓国初の科挙
高麗時代の光宗9年(西暦958年)に、朝鮮半島で最初の官僚登用試験「科挙(과거)」が開催されました。
これは中国で初めて科挙制度が取り入れられた、隋王朝の文帝(西暦587年)から約400年後に韓国でも取り入れられたことになります。
国王の権力を確立するため、優秀な官吏を選抜する科挙制度が始まり、その内容は人材を育成するために儒教の教義に焦点をあてたものでした。
しかし、それは王が貴族に対する牽制のために実施した制度でもありました。
このシステムは韓国で帰化した中国の学者、쌍기(サンギ)によって国王に提案されています。
科挙が導入される前、官僚はどのように決定したの?
当時、新羅時代の旧体制では政権を維持することが困難であったため、新羅中期から後期にかけて、人々は新しい統治体制(専制王権)を模索し始めました。
しかし、大統の正当性のために忠孝を重視した実践階級倫理である「儒教」を採択して国を治めます。
西暦520年(新羅法興王7年目)には「17官等(17관등)」制度を導入し階級を17個に分けます。
この制度は「骨品制(골품제)」と並行して機能していました。
出典:Doopedia
簡単に言えば、上位5階級までは王室の「聖骨(성골)」と貴族のトップ「真骨(진골)」のみがなることができ、
その次の「六頭品(6두품)」の身分の人たちは6〜9等級までしか昇格することができませんでした。
五頭品の人たちは10等級と11等級の麻(마)の位置まで。
四頭品の人たちは大舍(대사)、舍知(사지)、吉士(길사)、大屋(대오)、小烏(소오)、造位(조위)の位置までしか上がることができませんでした
これは、その人の能力よりも家系の背景を強調した制度です。
能力が高くても、貴族や王室の人より昇格することができず、同様に上位5等級は降格もしません。
上の画像からわかるように、階層によって着ている服の色も決まります
新羅の文武王(674)の治世中は、17等級まですべて貴族によって支配されていたため、一般市民は王朝の役人を務める機会がありませんでした。
そしてこの制度は市民の不満を呼び、権力は腐敗します。
高麗の光宗王は貴族や皇帝のみが権力を握ることを防ぐために、科挙を導入することを決定しました。
科挙制度はどうなったの?
六頭品出身の知識人たちは聖骨である王と協力し、王の権力を奪おうとする真骨である貴族に抵抗します。
そして六頭品の人たちは外交文書、医学、法律などにおいて様々な分野において活躍し、次の世代まで重要な政治顧問の役割を果たしました
このような雰囲気の中で西暦682年(新羅王文王2年)に「国学(국학)」が、西暦788年(新羅元聖王4年)に「読書三品科(독서삼품과)」が創設されます
儒教を基盤とする教育機関の一つである国学は、普通、六頭品の子供たちが在学し、試験を受けて無事卒業すると官職の地位を与えました
このような機関を設立することで、聖骨は六頭品と協力し合い、真骨の牽制を試みます。
真骨は王権強化を誘導する六頭品のこのような行動に反対し、後に真骨が国学の管理を独占したことにより大きな効果を得られなくなります。
そのため、新羅後期には多くの六頭品出身者は国学ではなく中国留学を選択するようになります
新羅後期に王権が弱まると、骨品制が崩壊し、地方勢力間の勢力争いが激しくなりました。
このような状況の中で、六頭品は真骨を牽制する役割を果たせなくなると、国学はその意味を次第に失っていきました。
高麗時代から新しくできた科挙試験制度は、文系と武科に分けられましたが、文系は合格の際に官僚となり、武科は王室を守る軍事組織に送られました。
このような科挙の試験形態は朝鮮時代まで続いたのです。
韓国の科挙とは
科挙試験の過程
科挙制度は高麗時代の建国と官僚制度の改善によって始まりました。
初期の試験は予備試験と本試験の2段階に分けられましたが、時間とともに徐々に細分化されていきます。
1004年(高麗武宗7年目)に科挙試験制度を再整備されます。
予備試験の「郷試(향시)」、その合格者を再試験する「会試(회시)」、その合格者を国王自ら試験官として試験する「殿試(전시)」の3段階の試験、つまり「科挙三層法(과거삼층법)」が実施されました。
また、合格者をより慎重に決定するために、合格者を再試験する「覆試(복시)」までありました
科挙制が施行されてから50年後の1024年(高麗顕宗15年)には、各地方で独自に試験を実施する郷試(향공)が実施されるようになります。
この郷試に合格した人はソウルの国字監(국자감)で再試験を受け、これに合格した人には本試験である「礼部試(예부시)」を受ける資格を与える方式により、科挙試験を実施することになりました。
そして1031年(高麗徳宗1年)には、国字監という学校の入学試験である「国字監試(국자감시)」が追加され、施行されました。
国字監試はのちに「成均試(성균시)」と改名されます。
この国字監試を通過して、国字監に入学した後、卒業試験に合格すると「進士(진사)」の称号を授与され、特別な待遇を受けることができました。
科挙は何を勉強するの?
どれだけの人が応募したの?
科挙試験の科目は主に、詩(시)、賦(부)、頌(송)、策(책)、製述業(제술업)、尚書(상서)、周易(주역)、毛詩(모시)、春秋(춘추)、礼記(예기)、明経業(명경업)。
雑科(잡과)には明法業(명법업)、明算業(명산업)、明書業(명서업)、醫業(의업)、地理業(지리업)などがありました
科挙試験は時期によって差がありますが、一度に30人ほど採用し、採用しない年度もありました。
文献によると毎年、または2年か数年に一度ずつ行われ、6,700人の人が志望していたと推定されています。
韓国の科挙の変化
一般人は科挙を受験できたの?
多くの人が科挙試験を受けたがりました。
貧しい家庭の子供たちが出世するために勉強しますが、経済的に支えられない家庭の子供たちにとっては実際、科挙試験は受けにくい環境でした
試験の規定上は平民(양인)に対する試験の受験資格制限はありませんが、文宗(1450〜1452)時代の記録からは受験資格が制限され始めます。
特定の階級の人々だけが参加できるようになり、次第に貴族だけが官職に進出するようになりました。
科挙試験は文科だけなの?
科挙試験といえば普通は文系がほとんどでしたが、武科を選抜する試験も存在しました。
初期には武学斎(무학재)が設置され、武術を教えて将軍を育成しましたが、それさえも文臣たちの反対に遭い、このような武術教育機関は20年で失われてしまいました。
このような武臣に対する差別は高麗時代まで続き、朝鮮時代になってこのような差別がなくなっていきました。
科挙試験の順位
科挙試験は、最終合格者に試験結果(点数及び順位)によって称号を付与しました。
最終合格者33名はそれぞれ、甲科(갑과)3名、乙科(을과)7名、兵科(병과)23名と呼ばれました。
そしてこのように区分された同じ等級の人同士は絆を深め、「龍頭会(용두회)」と呼ばれる同窓会と似た集まりを作ることもありました。
以上、韓国の科挙試験に関する関連知識でした。
韓国ドラマ『成均館スキャンダル』に描かれた姿は、実は朝鮮の正祖時代に成均館で起きたものなので、高麗の科挙試験の制度とは多少異なるかもしれません
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