韓国6・25朝鮮戦争
韓国の最も悲しい歴史「朝鮮戦争」を知ろう。
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1950年6月25日午前4時、朝鮮人民軍が38度線を越えて攻撃を始めました。
これは第二次世界大戦後、人類史上最も残酷な「朝鮮戦争(6・25戦争)」です
休戦から70年近くたった今も、朝鮮戦争は韓国と北朝鮮にとって忘れられない痛みとして残っています。
今回はそんな韓国で起こった6・25朝鮮戦争についてご紹介
韓国6・25朝鮮戦争
1. 朝鮮戦争前の背景
- 第二次世界大戦終戦後
1945年、第二次世界大戦終戦後に韓国は日本の統治下から独立しました。
カイロ会談にて独立が決定されましたが、アメリカとソ連が朝鮮半島を2つに分けて統治することに。
これが北朝鮮と韓国の悲劇的な分裂の始まりとなります
ソ連が北朝鮮に侵攻し、38度線で南北の交流や通信を遮断して政治的境界線を確立しました。
1カ月後アメリカが仁川に上陸しソ連と北朝鮮との対話を試みましたが、米ソは第二次世界大戦後冷戦状態だったため平和的統一に関する交渉は決裂
1947年、アメリカは南北統一の提案を放棄し、分裂固定化に基づいて朝鮮半島の勢力を守る新たな措置を模索しました。
アメリカ主導の連合国は朝鮮半島の暫定政府を成立させ、朝鮮半島の全国選挙を試みましたがソ連によって拒絶されます。
最終的に1948年5月10日に38度線の南に政権国会を設立し、同年12月に国連総会は「韓国は朝鮮半島の唯一の合法政権」だとし、現代の大韓民国の法制度を設立しました
北朝鮮は「朝鮮人民軍」、韓国は「大韓民国国軍(韓国軍)」という軍隊を設立し、朝鮮戦争勃発の種をまくことになります。
2. 朝鮮戦争勃発当日の早朝
- 1950年6月25日04:00
1950年初め、アメリカ首相が発表したアメリカが責任を持つ防衛ラインである「アソチンライン」には、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島が含まれていました。
これがアメリカが韓国を放棄したという考えに繋がり、北朝鮮が戦争を始めるきっかけとなったという説があります
ただ当時の資料が足りず、朝鮮戦争が起こった正確な理由は分かっていません。
1950年6月25日の午前4時に朝鮮人民軍は韓国に侵入します。
突然38度線を砲撃し、戦闘機を送って漢城(現ソウル)に侵攻
北朝鮮が韓国に侵攻してきたこの戦争を「朝鮮戦争(6・25戦争)」と呼びます。
3. 朝鮮戦争の過程
1950年6月25日から1950年10月
1950 6/25 | 朝鮮戦争勃発 |
1950 6/27 | 国連が韓国を援助することを決議 |
1950 7/1 | アメリカ軍釜山上陸 |
1950 9/15 | アメリカ軍仁川上陸 |
1950 10月 | 中国参戦 |
上記の表から北朝鮮、ソ連、中国などの共産主義国と韓国、アメリカ、国連などの自由主義国の2つの勢力が存在していることが分かります
朝鮮戦争初期には韓国軍は次々と敗北し、撤退しました。
1950年8月には北朝鮮人民軍が朝鮮半島のほとんどを占領し、韓国政府と難民は避難を余儀なくされます
韓国政府は慶尚道武山地方に移動し臨時政府を樹立しました。
この時期は韓国の歴史上一番つらい時期です
北朝鮮人民軍が至る所に侵攻、殺害を行い現代の韓国の主要都市をほとんど破壊しました
さらに人民軍が民間人に紛れ込むのを防ぐため、米軍は韓国の臨時管理区域外で遭遇した民間人を容赦なく虐殺します。
朝鮮戦争は数百万人の死傷者を出し、第二次世界大戦やベトナム戦争よりも大きな被害が出ました。
朝鮮戦争のターニングポイントは1950年9月15日、マッカーサーが仁川に上陸し新たに軍隊を導入した時です。
仁川上陸作戦で韓国軍は38度線を取り戻し、北朝鮮にまで進行します
韓国軍が北朝鮮に侵攻したことは中国が朝鮮戦争に参戦するきっかけとなりました。
1950年10月から1952年10月
マッカーサー率いる連合軍は、韓国の領土から北朝鮮人民軍を一掃し、38度線の北方にある中国領土に接近します。
当時、アメリカも国連も朝鮮半島の南北統一を実現できると確信していたが、中国軍の参戦により再び戦争が過激化
韓国軍と連合軍は38度線まで引き戻され、朝鮮戦争が長期化しました。
1951年2月1日、国連は「中国の朝鮮人民軍への介入は侵略行為である」と決議し、中国軍に撤退を要求。
しかし中国側はこれを拒否し、アメリカに対抗し北朝鮮を援助するため軍隊を送り続けました
同年7月から休戦協議を行いましたが、それぞれに有利な条件を要求したため交渉は難航
1952年10月まで2年間休戦協議が行われましたが結果が出ず、3月8日に国連軍の大行が休戦協議の中断を表明しました。
1952年10月から1953年7月27日
朝鮮戦争が長引いたため、中国、ソ連、北朝鮮、韓国、アメリカ、国連共に大きな損失が発生しました。
1953年2月、国連司令官が率先して北朝鮮と中国に連絡し捕虜の交換を提示
しかし捕虜の数と交換場所が決まらず5月にまた異なる戦争が勃発しました。
アメリカの大統領は当時の韓国大統領であったイ・スンマンに、南北統一の夢を捨て停戦の事実を受け入れることを提案。
イ・スンマンもこの提案を受け入れ、休戦協定を行います。
1953年7月27日午前10時、板門店にて「朝鮮休戦協定」が結ばれ、軍事境界線の設定、非武装地帯の確立、敵対行為の停止が決定しました
4. 朝鮮戦争のその後
当時署名されたのは休戦協定に過ぎなかったため、6・25戦争は停止したものの、冷戦時代に入りました。
2018年9月18日、韓国のムン・ジェイン元大統領と北朝鮮のキム・ジョンウン首相が「平壌共同宣言」に署名し、法律上朝鮮戦争の終結が決まりました
朝鮮戦争は多くの死傷者を出し、現代の朝鮮半島にも影響を及ぼしました。
朝鮮戦争からまだ70年しかたっておらず、残酷な歴史を経験した多くの人が生き続けています。
いきなり38度線が決定し行き来ができなくなり、家族や友人、恋人などが引き裂かれてしまいました
同じ言語を話していて地理的に近いにもかかわらず、戦争によって一生会えない人となってしまったのです。
過去にこのような状況下で生きる方たちが再会できる機会もありましたが、「また一緒に住む」ということが難しい別の国同士の人となってしまいました。
国際情勢に関しても、朝鮮戦争は第二次世界大戦後の新たな局面を切り開きました。
1950年に発表されたアソチンラインでは、台湾と朝鮮半島は太平洋防衛線に含まれていませんでした。
しかしアメリカ軍と国連は韓国を援助し、中国が台湾に軍隊を派遣するのを防ぎました
また中国は朝鮮戦争を通じて徐々に軍事力を強化していきました。
ソ連崩壊後、アメリカと競争するほどの力を持つようになります。
さらに日本はアメリカと国連軍の供給源となり、第二次世界大戦後の経済発展とアメリカとの友好関係を築きました
5. 朝鮮戦争に関するお話
韓国の映画では6・25朝鮮戦争の悲劇の物語がたくさん受け継がれています。
映画《国際市場で逢いましょう》もその一つです。
とても分かりやすく当時の状況が描かれているので、興味のある方は見てみてください。
出典:네이버영화,Amazon
今回ご紹介したいのは1950年8月11日の早朝に浦項女子中学校で起こった戦いのお話。
韓国軍は数人、学生義勇兵は71人しかいませんでしたが、激しい戦いを行いすべての学生兵が朝鮮人民軍に殺されました
韓国軍は遺体を数えている時に、1人の学生イ・ウグン(이우근)の服から手紙を見つけます。
「お母さん!私は人を殺しました。
それも石垣1つを挟んで10人ほどだったと思います。
私は2人の特攻隊員と共に手榴弾という怖い爆発武器を投げて、一瞬で殺してしまいました。
手榴弾の爆音は私の鼓膜を破りました。
今この手紙を書いている瞬間にも、私の耳は怖い音で溢れています。
お母さん!朝鮮人民軍の足と手は引き裂かれました。
なんと残酷な死なのでしょうか。
敵だと言っても彼らも人間だと考えると、同じ言語を話し同じ血が流れる同族だと考えると、心が重いです。
お母さん!戦争はなぜしなければならないのでしょうか。
この複雑で辛い気持ちをお母さんに伝えるだけで、私の気持ちは落ち着きます。
私は怖い考えが浮かんできます。
早く戦争が終わって、お母さん!と呼びながら母の胸に抱かれたいです。
昨日は自分で下着を洗って着ました。
着替えている時なぜか死装束を思い出しました。
死者に着せる死装束のことです。
もしかしたら今日私は死ぬのかもしれません。
必ず生きて帰ります。
ふとサンチュにお肉を挟んで食べたくなりました。
冷たい湧き水で歯がしみるほど冷水を思いっきり飲みたいです。
あ!敵がまた近づいてきているようです。
お母さん、さようなら!さようなら!
あ、さよならではないですね。
また手紙を書くのですから。」
結局17歳のイ・ウグンは浦項女子中学校での戦いで戦死し、母親に書きたかった2通目の手紙は書けませんでした...。
今回は韓国で起こった6・25朝鮮戦争についてご紹介しました。
いかがだったでしょうか?
悲惨な朝鮮戦争の傷跡は今でも韓国人の心に深く刻まれています。
再びこのようなことが起きないように、戦争のない世界になってほしいです
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